2005年現在NORAは 生まれ変わったオルケスタ・デ・ラ・ルスの活動において 日本語と「サルサ」をいかにブレンドしていくかに熱を入れています。
バンドの一員として活動中の彼女の心持は かつての「オルケスタ・デ・ラ・ルス」を経て、ソロ・アルバムを 製作したときと異なる状態なのだろうと、察するのですが、 本作品も間違いなく、NORAの歴史の一部分。 彼女がかつて、日本人オルケスタとして世界に飛び出し 栄光を手にした後に、ソロの可能性を求めて録音した この作品を、一度は聴いてもらいたいと思うのです。
旧デ・ラ・ルス時代に親交を持っていた 名プロデューサー。よくも悪くも個性的な才能を持ち合わせた セルジオ・ジョージに、すべてを委ねて作られたゆえに 賛否も、好みも大きく分かれるのでしょうが ここにいるのは、ナチュラルなNORAではなく 別のアーティスト「NORANORA」。その前提で聴くことがベスト。
セルジオは NORAに声の出し方、表現の微細に至るまで 注文を突きつけたといいます。
♯2はGUACOの名曲を 当時、最高に人気を誇ったセルジオの秘蔵っ子 ヒューイ・ダンバーと共にカヴァーした曲ですが NORAと同じくらいの高音域を出す彼とのデュエットは 非常に苦労したそうです。 どれだけ精一杯に歌っても 「もっと。もっとだ」と、許しては貰えず 血管が切れそうになるほどの歌い方を求められ、しかも 聴き手にはアドリブに思えるような、掛け合い部分も全てが セルジオの注文どおりに、表現しなくてはいけなかったと。
窮屈だったかもしれません。 もしかしたら彼女は、このようなやり方で、ソロ・アルバムを 作ろうと考えてはいなかったのかも分かりません。 けれど、その結果として存在しているこの作品を聴いてください。 日本人のラテン歌手で誰がこのような完成度の 作品を残せたでしょうか。 紛れもなく素晴らしい歌手NORAが、豊かな音楽を持ち合わせた プロデューサーと出合ったからこそ、です。
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日本を代表する女優のひとり、岩下志麻は 若き頃「映画は主演女優のもの」と自負し 出演する作品には、当然のごとく全身全霊で取り組み 自分なりのアイディアがわけば、監督に 「ここは、このように動いた方がいいのではないか」 「セリフはこちらのほうが自然では」 などと、進んで意見を述べることがあったのだそうです。
しかし、ある時、監督に 「君は私の指示通りに演じてくれればいい 映画は監督のものだ」と言われ、憤慨した。 憤慨はしても女優ですから、「じゃあやってやる」となり 監督の望むとおりに意地になって演じたそうです。 そして、作品はできあがりラッシュを見るときになって 「素晴らしい出来になっている。やはり 映画は監督のものだった」と 岩下志麻は揺らぎもなく思ったそうです。 ・・・以来、彼女は女優として ますます評価を高くしていったといいます。
女優も、歌手も、どうしようもなく表現者ですから 「映画は監督のもの」、「音楽はプロデューサーのもの」 ということになったら、相当抵抗があるのは当然です。正確には どちらも、その女優や歌手なしには、成立しない世界なのですから。 が、監督に全て身を任せることにより 「自分でも想像のつかないない世界」にたどり着けるということも あるのだと思うのです。
なお、♯5は実に切なく美しい曲ですが、NORA自身が 作曲しています。この美メロを生み出せるとは 彼女の才能、歌手だけにとどまるものではないということでしょう。
(DJ KAZURU ★ 2005/07/04)
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