キューバの名プロデューサーと言われる人には、驚くような アイディアと、理論を持つ人が少なくありませんが Joaquín Betancourt は中でも重要な人物です。 その妻であったジャクリン・カステリャーノスが1993 年に発表した この美しいアルバムは、当然彼の采配によるものです。 これは ジャクリンという魅惑的な女性歌手を看板に、ホアキンが 思うがまま手腕をふるった作品、ということもできるでしょう。 ジャクリンは、1987 年には伝説の"opus13"のコロに 参加していますから、アルバム制作時のキャリアも充分。
冒頭、♯1 から切なさたっぷりに歌い上げるジャクリンの声、 すべらかで、説得力があって、こんな声で語られたのならば 嘘も真実になりそうな勢いです。
そして、ジャジーな展開に心を掴まれ 1993 年のキューバ音楽は、こんなにも成熟していたのだ、と 改めて、感服するのです。
♯11 のこみあげ系、♯10 のチャ・チャ・チャも好きですが 中でも♯5 は名曲にふさわしく、リリースから10年を過ぎてなお 褪せることのない、輝きを持っています。 なんという完成度、歌手の魅力全開。
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ところで、ジャクリンは 今や世界中からラブコールの絶えない ハイラ・マリア・モンピエに歌手の道をすすめた人でもあります。 それまで、ハイラはずっと、ダンスで活動していたのですね。
ジャクリンは、娘の友人だったハイラに 「なぜ歌わないの? もう踊りはいいから 歌を歌いなさい」と言ったそうです。 当時、彼女は 夫・ホアキンとのソロ歌手としての活動のほかに 伝統的なセプテートの歌手としての仕事も抱えていましたので、 とても多忙だったのですね。 ですから、セプテ-トの仕事をハイラに託したという経緯があったようです。
そこがハイラの、プロ歌手としてのスタートだったのです。 約1年、ラス・アベニーダスというキャバレーで セプテートの仕事をし、その後アバナ・ソンに加入。 そこからあとは あっという間にキューバを代表する 地位にまで のぼりつめたといったところでしょう。 当然、ハイラは現在でもジャクリンとの間に生じた 不思議な縁を、忘れていません。
ジャクリンは、自分が一流の歌手であっただけではなく 後に続くべき、優秀な若手の発掘にも一役かっていたことになります。 事実、のちのキューバには 美しく、人々の憧れをさそう、女性の歌手が増えました。 「キューバ女性の魅力」を充分に自覚して、さらに迫力ある 振る舞いでステージにのぼる彼女達は、眩しいほどです。 あなたが、そういった姿に惹かれると感じたならば 一度は、その「先輩」であるジャクリンの歌声にも 耳を傾けなければならないでしょう。
(DJ KAZURU ★ 2005/09/12)
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