コンテンポラリー・キューバンは、はたしていつから、どのバンドから生まれてきたのか。諸説がありそうですが、その大きな流れを生み出した源泉といえる偉大なバンドがオルケスタ・レベであることは確かでしょう。
このバンドの評価すべき所は3点。 「レベ学校」 と言える程多くのミュージシャン、バンドを輩出したこと、「レベ風チャングイ」というグルーヴ溢れるリズムを考案したこと、そしてこの傑作アルバム 「 Mi Salsa Tiene Sandunga 」 をはじめ素晴らしい作品を世に出したことです。
バンド・リーダーのエリオ・レベは、東部オリエンテ地方のグアンタナモ出身で 1930 年生まれ。1950 年代にハバナに出てきてバンドを結成します。初期には、チューチョ・バルデスやタタ・グイネスが参加していたこともあったようです。
1960 年代後半には、ベースにファン・フォルメルが加入し作曲、アレンジを担当。オルケスタ・レベは彼の類稀なセンスもあって一気に人気バンドとなります。 ところが 1970 年に、そのファン・フォルメルがリーダーのエリオ・レベ1人を残してメンバー全員を引き連れて脱退し、Los Van Van を結成してしまいます。我々が良く知るロス・バン・バンのオリジナル・メンバーは、当時のオルケスタ・レベそのものだった訳です。 残されたエリオ・レベは、弟のオデルギーと共にバンドを再結成しますが、バン・バンの大活躍とは逆に低迷してしまいます。
そしてついに復活を果たすことができたのが 1985 年。 ボーカルに SON14 のフェリックス・バロイ、トレスにパピ・オビエド、そして新たにトロンボーン・セクションを導入し、エリオ・レベが考案した新チャングイというバイラブレなリズムを武器にハバナのトップ・バンドに躍り出ます。 このときの立役者の1人は、ピアノで加入したファン・カルロス・アルファンソ。そのモダンなアレンジで伝統的なバンド、レベに新しい息吹を吹き込むことに成功します。 彼は 1988 年には Dan Den を結成し大ヒットを連発。Los Van Van の時と同様にレベはまた人気バンドを誕生させたわけですが、今回は失速することなくさらに爆発するグルーヴに磨きをかけて遂に本作 「 Mi Salsa Tiene Sandunga 」 で名実共にキューバ NO.1 バンドに登りつめることになります。
ここで各楽曲を紹介します。 1曲目の Mi Salsa Tiene Sandunga は、人気 TV 音楽番組「 Mi Salsa 」のテーマ・ソングとなった大ヒット・ナンバー。 この番組は 1990 年代のキューバン・サルサを牽引したといっても過言ではないほどの影響力をもっていて、その後にトップ・バンドに成長するチャランガ・アバネーラやマノリン・メディコ・デ・ラ・サルサなどが出演した映像がビデオで発売されたりもしました。 ニューヨークで生まれたサルサがラテン諸国に拡大する中で、ただ一つおいていかれたキューバですが、ことさらサルサを強調しているバンドではないレベが「俺のサルサ」という曲をもって宣言めいたことをしているのはキューバ音楽の意地を見せているというか、なかなか面白いことです。
2曲目の Así Soy Y Qué は、今やベテラン・カンタンテといえるユムリがリード・ボーカルをとるナンバー。彼もこの後、自身のバンドを結成し、ヒットを飛ばす存在となります。
3曲目の El Secreto De Mi Charangón は、チャングイの心地よいリズムがひたすら続くミディアム・ナンバー。
4曲目 El Ibiano は、パーカッションを強調したナンバー。エリオ・レベのティンバレスの合図でグルーヴを加速させたり、アジテーションともいえる掛け声でバンドを煽ったりするところが、オルケスタ・レベの特徴であり真骨頂です。
5曲目 Tremendo Chu Chu Chu もヒット曲。
8曲目 María Ramos のイントロを聴くと、このオルケスタ・レベのサウンドはソンではなく、ルンバやサンテリアのアフロ・キューバンをベースにしていることがわかります。
全ての作品が同じリズム、チャングイで貫かれているまさにエリオ・レベ入魂の1作といえる内容です。
この作品の後 1995 年に 「 Arriba Las Manos 」 を発表するも、エリオ・レベは息子の成長を見守っている時期、1997 年に交通事故で不慮の死を遂げてしまいます。オルケスタ・レベにとってだけでなく、キューバ音楽全体にとって、あまりに大きすぎる損失でした。
この事故の後、1997 年頃からコンテンポラリー・キューバン界は、キューバン・サルサをティンバと呼び替え全盛期を迎えますが、テクニック、アレンジ志向が強調されすぎて、2002 年には失速ぎみになります。 エリオ・レベが生きていたら、バンドの素晴らしさはテクニックだけではなく、全体のグルーヴだと後輩達に説いて回ったことでしょう。強面のご意見番、キューバ音楽のオヤジを失ったコンテンポラリー・キューバン界は、アレンジャーと人気ボーカリスト主体の離合集散を繰り返していくことになります。 もし、エリオ・レベが存在していたら、何かが変わっていたのかも知れません。
日本では 1992 年と 1994 年に、レベの理解者の招聘によって来日コンサートが実現しています。1994 年の六本木ライブでは、リーダーのエリオ・レベは、バンドの演奏中ロビーや会場をうろうろと歩き回っていたかと思うと、おもむろにステージ中央、最後列のティンバレスにつき、「ダカダカダン!」と一発。それまでにも充分に盛り上がっていた演奏がなべをひっくり返したような怒涛の展開になり、オーディエンスを巻き込んでとんでもない雰囲気になったことを思い出します。
エリオ・レベの演奏を体験したことのある人は勿論、この作品はお持ちのことと思いますが、最近キューバンを聴き始めた人も必ず一度は聴くべき作品であり、バンドといえます。
(福田 カズノブ ★ 2005/11/14)
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