評論というものの役割について
最近とても考えているのですけれど
渡辺保氏が1989年に書いた
「歌舞伎」を読んでいて頭のなかが
まとまってきました。
「歌舞伎」という本がまた
冒頭の「口上」の項ひとつとっても
目の覚めるような文章で満たされていて
すごすぎる歌舞伎の評論本なので
歌舞伎好きなら一度は通る本です。
そして、同時に
評論とは何かを考えさせられる
本でもあるのです。
どんなに素晴らしい芸がそこにあっても
それを正しく感じ、言葉に変えて
世間に広く伝えられる
人間がいなければ、というのが
渡辺保氏の根っこのひとつかと思います。
「六代目菊五郎には
劇評家三宅周太郎がその劇評において
示したような美学があり、
七代目梅幸には、戸板康二の美学があった。
役者の作る美学は観客のひとりである
劇評家の美学によって叙述され
完成され、構成に残る。しかしいまの
七代目菊五郎にどんな、誰の
美学があるだろうか」
これは私が歌舞伎を見たあとに
渡辺保氏の劇評を読んで非常に
理解が深まるあの経験のことと近い。
楽しめればいいのよ、と
漫然と芝居を見てくるのと殆ど対極です。
「古典というものは、簡単なものでも
面白いものでもまして
気軽にわかるものでもないと思っている」
渡辺保氏は、続けて
「解説書や入門書でわかる類いのもの
ではない。そういうことは大方の歌舞伎の
観客にもいえることであって、いまの
観客の何人が歌舞伎を本当に
理解しているかというとまことに心もとない
(中略)
楽しむ見方を決して私は否定はしないが
その楽しみ方がどれほど深いかにはつねに
疑問を持つのだ」
と、述べる。
ここなんですよね。
音楽であろうが芝居であろうが
本当に味わい尽くしたの? と
いう部分。
自分もなじみのない
伝統芸能やら古曲やらに接するとき
「わからないけど素敵に感じる」
という時代がありました。
しかしずっとそのまま
「わからないながら楽しい」というのでは
悲しすぎるんですよ(そうはいっても
これは自らが専門家になれ、とかいう
話では全くない)。
芸の歴史を知り、深い感性を持ち
舞台と観客の狭間で美学を示してくれる
評論家の存在は貴重です。
立派に役目を果たすことの出来る
評論家がいれば、そのジャンルは
衰えないということも
言えるのではないでしょうか。
歌舞伎のような伝統芸能とはまた
違えど音楽の世界にもそういう
存在の有り無しは、業界の隆盛に
繋がると思えるのです。
DJ KAZURU
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