「東北モノローグ」
いとうせいこう 著、拝読。
いとうせいこう氏が「あの災害」を
体験した人々の声を上げる聞き取った
記録。
いとうせいこう氏の創作ではありません。
3.11の震災がどんな規模で
大きな喪失となったか、遠いところに
住む人々も、ぼんやりと
知ってるわけだけど
その時
当事者が何を感じてどう動いて
今どうやって生きているのかは、丁寧に
語ってもらわないと
感じにくいってことは
思っていました。
拝読して
やっぱり、という思いでいっぱいです。
冒頭、現在大学生の女性が
10年前のことを整理して、人に伝えていくために
言葉をつなぐ。
それは自分の身に何が起こったのかを
検証する試みでもあるんですよね。
傷ついた子どもたちはもちろんだけど
先生たちも傷ついて涙をこぼしたりする。
そして
もっと大きく傷ついた人が隣にいれば
自分が哀しむなんて傲慢かと思う。
再度教室に集まったときの
クラス内の空気。
何気なくクラスメイトが発した
重い言葉や
心の動きは
新聞の記事くらいのスペースでは
伝わらないんですよ。
細かいディテールを省略すると
当事者の思いもどんどん
削られてしまうから。
でもけして長い文章ではないので
できるだけ事象をまとめて
語ってくれてはいるのだと思います。
二人目は地元の火葬場の
所長さんで
炉が水浸しになって、でも
土葬はあんまりだという市長さんの
肝いりで震災後2週間で火葬炉を
復帰させた現場のできごとと
自分の家族は日頃からの備えで
助かったのだという
話をしてくれています。
結果として
ご家族は無事でなによりですが
津波から逃げるときの様子は
ギリギリで、走ったため心臓発作を
起こした奥様がのちに
開胸手術を受けて命をつないだ、なんて
ことが語られてたり
途中で動けなくなってる老人を
なんとか救助したという話も出てきます。
「無事でした」の裏には
色々な苦労があったんですね。
それはディテールを語っていただかなければ
分らなかったことです。
火葬所についても
死というのはどのような人間でも
丁重に扱われるべきものなのに
焼香台も花の置き場もなく
遺族が心穏やかに過ごせる
待合室もなく、急ごしらえの
火葬場でお骨にするというのは
心苦しいことなんですね。
でもその時の精一杯でみんな
つとめてる。
こういうことは
「あの日は友引だったから
火葬場は休みだったんです」
に始まる具体的な事象を
並べてもらうことで私達も
ああそうか、そうか、と
気持ちに寄り添うことが出来るものです。
炉が復帰して最初の火葬は
祖母に伴われた若い男性二人
だったそうですが、こういうことは
通常の火葬場ではまず見ない光景です。
そのあともいっぱい
ありえないような状況で
死に至ったご遺体を火葬してったんでしょう。
この所長さんは
他の火葬所が無事だった地区では
通常通りの営業が行われていたのかも、と
回想していますが、そのときは
必死に輸送されてくる御遺体を火葬することで
手いっぱいだったんでしょうね。
語りを読んでいると
この所長さんの顔、姿まで
見えてくるような気持ちになります。
町内の個人宅を線量計で
あの日からずっと測りつづけてる
農家の男性の訴え。
防災意識を個人個人に
植え付けるために活動する人。
充分な保証が得られず
被災したまま何年経っても
通常の生活に戻れない人。
個人的な体験を民話のように
文字に起こして形にした人。
などなど、
我々は、この語りを
受け止める必要があります。
そういうモノローグになっています。
読んでいると、行政の不備に対して
怒りも湧いてくるのですが、
フリーで被災地の取材してる人が
お金なくなってくると、ある大手出版社の社員が、
自分たちは給料もらい過ぎだから、と
自腹でお金渡してくれたっていう話とか
ああ、まともな人間もいるな、と
ほっとするような話もありました。
ただ、苦しいエピソードが
殆どです。
DJ KAZURU
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